大判例

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広島高等裁判所 昭和52年(ラ)67号 決定

四一、五六、六五、六七号事件抗告人 青山友子 外九二名

訴訟代理人 外山佳昌 外三五名

四一号事件相手方 田辺製薬株式会社

相手方代理人 石川泰三 外一一名

五六、六五、六七号事件相手方 日本チバガイギー株式会社

主文

本件抗告をいずれも却下する。

抗告費用はいずれも抗告人らの負担とする。

理由

本件各抗告の趣旨は、いずれも「原決定を取り消す。相手方の文書提出命令の申立を却下する」との裁判を求めるというにあり、その抗告の理由は、いずれも別紙「抗告の理由」記載のとおりである。

そこで、まず本件各抗告の適否について検討する。

一  記録によれば、原裁判所は、(1) 昭和五二年一〇月一四日、相手方田辺製薬株式会社の申立にもとづき、別紙病院目録(一)第一ないし第六記載の各病院に対し、それぞれ別紙当事者目録記載(8) ・(24)・(33)・(34)・(37)・(40)・(42)・(43)・(48)・(61)・(62)・(81)の各抗告人らにかかる別紙文書目録(一)第一欄ないし第六欄記載の各診療録の提出を命じる決定を、相手方日本チバガイギー株式会社の申立にもとづき、(2) 同年一一月二日別紙病院目録(二)第一ないし第一六記載の各病院に対し、それぞれ別紙当事者目録記載(1) ・(12)・(18)・(20)・(21)・(23)・(26)・(30)・(32)・(35)・(36)・(39)・(51)・(52)・(56)・(57)・(60)・(73)・(75)・(76)・(77)・(80)・(89)・(91)・(92)の各抗告人らにかかる別紙文書目録(二)第一欄ないし第一六欄記載の各診療録の提出を命じる決定を、(3) 同月一六日別紙病院目録(三)第一・二記載の各病院に対し、それぞれ別紙当事者目録記載(55)・(71)・(78)の各抗告人らにかかる別紙文書目録(三)第一・第二欄記載の各診療録の提出を命じる決定を、(4) 同年一二月一日別紙所持者目録記載の町に対し、別紙当事者目録記載(77) の抗告人にかかる別紙文書目録(四)記載の各診療録の提出を命じる決定をそれぞれなしたこと、原裁判所は、前記各抗告人らの症状の経過等相手方の本件各文書提出命令の申立において明示した「証すべき事実」記載の事実を立証するものとして、右各申立を認容したものであることが明らかである。そして、抗告人らは全員が、右の(1) から(4) までの決定に対し、いずれも即時抗告を申立てるものである。

二  ところで、記録によると、相手方田辺製薬株式会社は、別紙病院目録(一)第五欄記載の病院に対する当事者目録(81)の抗告人藤岡弘にかかる診療録の提出命令の申立を同年一二月一日取下げたことが認められるところ、記録によると、右申立にもとづき原裁判所が提出を命じた診療録はいまだその証拠調がなされていないことが認められるから、右申立を認容した原文書提出命令は前記取下により失効したものというべく、したがつて、これに対する抗告は、不服申立の対象を欠き、不適法である。

三  文書提出命令の申立は、文書の所持者に提出義務あることを主張してその提出を命ずべき旨を求めると共にあわせて当該文書を書証としてその証拠調を請求する証拠の申出であると解されるのであつて、右申立を認容した文書提出命令は、所持者に文書の提出を命じるほか、当該文書の証拠申出を採用する証拠決定の性質をも有するものであるというべきところ、抗告人らは、いずれも原文書提出命令により提出を命じられた文書の所持者ではなく、原文書提出命令の申立人とは対立当事者の関係に立つ前記損害賠償請求訴訟の原告であるに過ぎず、原文書提出命令によつては、抗告人のうち前記一掲記の各抗告人においては、自己の相手方らに対する損害賠償請求権の存否等に関する相手方の新たな証拠の申立が採用されたもの、その余の抗告人らに関しては併合審判する共同原告の請求について証拠調の決定がなされたものであるという以上には、その訴訟上の利害関係を生ぜしめるものではない。

そして、当事者一方からの証拠申出に対し、対立当事者が取調の要否等につき意見を述べ、或いは時機に遅れた攻撃防禦方法として取調に異議を申立て得ること等は別として、右申出を認容した決定に対しては、独立して不服を申立てることを得ないのであるから、原文書提出命令によつては、書証の証拠調の決定がなされたという利害関係を有するに過ぎない抗告人らは、いずれも原文書提出命令に対し独立して不服を申立てることは許されないというべきである。

右の理は当該文書の性質、内容を問わないものであつて、例えば文書が対立当事者の秘密ないしはプライバシイに関するものであり、その意味において対立当事者がその提出につき利害関係なしとはいえないものであるとしても、それは訴訟上の利害関係というにはあたらず、これを以て対立当事者として文書の提出を阻止し得べき筋合のものではない。そのことは、かような文書を挙証者自身が所持しあるいは所持者たる第三者が任意に提供する場合において、対立当事者が訴訟上その提出を阻止し得る何らの手段も有しないことから考えても明らかである。(ただし、右の点を、後記のとおり抗告権を有する文書所持者が、その立場において文書提出を拒む理由として主張し得るか否かは、また別個の問題である。)

もつとも民訴法三一五条は、文書提出命令の申立に関する決定に対しては即時抗告をなすことを得と規定し、特に抗告権者を限定していないけれども、同条が、文書提出命令に関する決定については、証拠の申出を採用する旨の決定に対し独立の不服申立をなし得ぬ旨の原則を、特に排除する特則を定めたものであるとは解されない。おもうに、同法三一二条の規定は、文書の提出を強制することが文書所持者の権利ないしは利益の侵害であることに鑑み、真実発見という訴訟上の要請に一線を画して、同条所定の場合にのみ所持者にその侵害を受忍すべき公法上の義務を課したものと理解すべきであるから、文書提出命令において判断される右義務の存否については本来本案訴訟の帰すうとは別個に挙証者と所持者との間で争われるべき問題であり、文書提出命令の証拠決定たる一面があくまで当事者間の問題として終局判決に集約されて争われるのとは異なる意味を有するのである。そこで、同法三一五条は、文書提出命令の申立を排斥された挙証者においては、別途に即時抗告により、提出義務の存否を争い得るとすると共に、他方文書の提出を命じられた所持者においては、命令に従わないときは訴訟上不利益を被り、あるいは過料の制裁を受けるなどのことから、即時抗告をもつて、文書提出命令にかかる提出義務の存否については、これを本案訴訟の審理とは別に争う機会を与えたものと解するを相当とする。したがつて、民訴法三一五条の規定をもつて、抗告人らに、原文書提出命令に対し即時抗告をなし得る権利があるものと解すべき根拠とはなし難い。

そうすると、本件各即時抗告の申出は、いずれも不適法であるから、これを却下することとし、抗告費用の負担につき民訴法八九条・九三条を適用して、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 胡田勲 裁判官 北村恬夫 裁判官 下江一成)

(別紙)当事者目録〈省略〉

(別紙)病院目録(一)(一部登載)

第一 広島市八丁堀七の二 河石病院

院長 河石浩

第二 呉市青山町一丁目一〇番地 国立呉病院

院長 崎原英夫

(別紙)病院目録(二)・(三)、所持者目録〈省略〉

(別紙)文書目録(一)(一部登載)

第一欄ないし第六欄共通に左の患者の左の期間における外来および入院診療録(看護記録も含む)

(患者氏名) (生年月日) (住所) (期間)

(第一欄-河石病院分)

西村恒夫 大10・3・1 広島市安古市町古市一七四五 昭和45年中診療分

(第二欄-呉病院分)

伊藤雪子 大4・1・1 呉市東鹿田町五-五二 昭和41年11月28日より昭和43年7月まで

大原時夫 大7・4・7 呉市東河原石町四-一四 昭和41年中診療分

(別紙)文書目録(二)ないし(四)〈省略〉

(別紙)抗告の理由

原決定はその理由として「……診療録は民事訴訟法三一二条三項前段に該当し、かつ証拠として提出することの必要が認められる……」と述べている。しかし右判断には次の三点の違法がある。すなわち第一に、本申立の証すべき事実の欠除をみすごしたこと、第二に、右法条に該当する旨の判断の誤まり、第三に、証拠としての必要性を肯定した違法、この三つである。

以下、三点の理由を詳細に述べるが、原決定の理由が余りに簡潔であるので、主として相手方の申立理由に対する反論に重点を置きたい。

一、本申立には証すべき事実が欠除しており、却下されねばならない。

民事訴訟法三一三条三号は文書提出申立の方式として「証すべき事実」の明示を要求している。相手方はその点につき「原告らの症状の経過、原告らに対するキノホルム剤投与と腹部症状、神経症状との間の因果関係の存否、合併症の有無と現神経症状に与える影響の程度」と記している。しかし、これは右法条の要求する「証すべき事実」たり得ない。なぜならそこに言う事実とは具体的な事実でなければならず、右の如き二者択一の事実を並べそのうちのどちらかであるというが如き主張は絶対に許されない。証拠探知のための申立となるからである。このことは他の条項からも裏づけられる。民事訴訟法三一六条以下には文書不提出等の効果として「……相手方の主張を真実と認める……」旨規定している。これを本件にあてはめると一体、いかなる主張が認められるのか。論理的にいうと因果関係の存否、合併症の有無、影響の程度が認められると言う、全くナンセンスな回答が得られる。これこそ相手方の主張が「証すべき事実」たり得ていない由縁である。

この理は判例においても広く認められている。本件の先例として適切と思われる東京高裁決定昭和四七年五月二二日(判例時報六六八号一九頁以下)があることを指摘しておく。

二、医師の所持するカルテに対して製薬会社は提出命令を求める事はできない。

1. 原決定は結論的に民事訴訟法第三一二条三号前段に基づき、本件訴訟と全く無関係な医師が所持又は管理するカルテを挙証者たる製薬会社(相手方)の利益のために作成せられた文書に該当する旨判断した。

まずこの点に関する判例学説を検討する。

従来の代表的判例は

(1)  「民訴法三一二条三号前段……にいう挙証者のために作成された文書とは、身分証明書、授権書、遺言書などのようにその文書により挙証者の地位・権利および権限が直接明らかにされるものを指すものと解するのが相当である。」(大阪高決昭和四〇・九・二八判例時報四三四号四一頁)

(2)  「同条(民訴法三一二条三号前段)の挙証者の利益のために作成された文書とは、身分証明書、領収証、遺言状などのように、当該文書により直接挙証者の地位や権利・権限を証明し、または基礎づけるために作成されたものを指すものと解するのが相当である。」(福岡高決昭四八・二・一判例時報七〇一号八三頁)

又通説も右判例と同旨であつて、例えば

「挙証者の利益のために作成されたものとは挙証者の地位や権利・権限を証明し、又は基礎づけるために作成されたものであり、例えば身分証明書、配給通帳、授権書、同意書、領収書の類である。挙証者のした契約書なども通常これに属する。」(兼子一、条解民事訴訟法上七九三頁)。

以上の判例・学説でも明らかなように「挙証者の利益のために作成された文書」とはその文書の性質として挙証者の地位や権利・権限を直接証明する目的で作成されたものであることが必要である。

2. そこで本件で問題になつているカルテの作成目的について検討する。

カルテの作成目的が、診療経過を記録し、診療行為に資することによつて、医師と患者のそれぞれにとつて診療行為の適正を確保することにあることは論ずるまでもない。

すなわち医師は、記録された診療経過の点検によつて、より適正な診療に近づくことができるし、また患者の求めに応じて診療経過の十分な説明をつくすことができる。

他方患者は、カルテにもとづいて、自己の診療経過を識ることができるとともに診療について疑問・批判すべき点があれば、医師に対してその指摘をし、医師の適正な診療の回復を求めることができる。

これがカルテの最重要な作成目的である。

例えば、医療過誤訴訟において、診療の適否をめぐつて医師と患者の間で意見が対立し、医師あるいは患者からカルテが紛争の証拠として用いられる場合には、当該医師・患者間の診療行為そのものに資することにはならないが、右の意見対立・紛争解決を契機として、当該医師と患者の間で診療の適否を確定することによつて、医療の発展に供することになるので、全く例外的にカルテを紛争の証拠とすることが許容されるのである。

しかしカルテを紛争の証拠とすることが認められるのは、右に述べたカルテの作成目的からして、医師と患者に限られることはいうまでもない。またいたずらに医師と患者以外の第三者にカルテを紛争の証拠とすることを認めることになれば、医師と患者間の信頼関係を破壊し守秘義務によつて、患者が診療情報を十分に医師に提供することが阻害されかえつてカルテ作成目的である適正な診療を確保することができなくなることに思を至すべきである。

松野判事は次のようにのべている。

「医師法二四条によれば医師は患者を診察したときは診療に関する事項を記載した診療録を作成し、これを五年間保存しなければならない。-中略-

診療録作成・保存を医師に義務づけたのは、医師の診療行為の適正を確保するとともに患者との関係において再診療・医療費請求・医療過誤による損害賠償請求等の法的紛争のように後日医師の診療をめぐつて生起した問題についての重要な資料となるからである。」(実務法律大系五巻二五三F松野嘉貞)。

即ち第一義的にはカルテは診療行為の適正を確保するためとともに第二義的には患者と医師の間において医師の診療をめぐつて生起する法的紛争の重要な資料とするものである。医師にカルテの作成義務が課せられるのは右のような理由に基づくものである。従つてカルテという文書は第二義的には患者とそれを治療した医師の権利・義務を証明するという性質を有しているものと言う事ができる。

しかしこれはあくまでも直接当事者である医師と患者との間において発生した法的紛争について述べているのであつて、それ以上に拡張することを認めるものではない。

また、松野判事は三号前段に基づくカルテの提出命令の許否について次のように論じている。

「診療録作成義務の根拠として後日の患者と医師との法的紛争のための証拠確保という事が含まれていることはすでに述べたとおりである。そして診療録は原告の立場からみれば債務不履行または不法行為に基づく損害賠償請求権の存在を被告の立場からみればその不存在を基礎づける文書と言えるから三号前段に該当すると解する。

第三者たる医師の所持する診療録については、その診療録は、その医師と原告との法的紛争のため証拠として作成されたもので原告と被告の医師との紛争を予定したものではないから三号前段の該当については消極に解する」(法律実務大系五巻二五六ページ)右松野判事の見解は医療過誤で患者が原告となり医師を被告として提訴した場合でも訴訟当事者でない第三者たる医師の所持するカルテに対しては提出命令は認められないとし、カルテは診療の当事者の後日の証拠として作成されたものでそれ以外の者のために証拠として作成されたものではないという考え方を明確に示している。

3. 次に相手方田辺と同様、カルテは民事訴訟法第三一二条三号前段にいう「挙証者ノ利益ノタメニ作成」された文書であると主張してカルテの提出命令を求めた被告チバの申立に対し福岡地裁(昭和五二年六月二一日決定)は次のとおり製薬会社の利益はせいぜい反射的利益に止まるものでいまだ法的利益に該当しないとして却下決定をなした。

「民訴法三一二条三号前段にいう「挙証者ノ利益ノタメニ作成」された文書とは、後日の証拠のために、または権利義務を発生させるために作成されたものであつて、挙証者の地位、権限または権利を示す文書をいうものと解すべきであり、従つて提出を求められている文書が右文書に該当するか否かを判断するに際しては、当該文書が作成された動機、目的が重視されるべきである。

ところで、医師法二四条が医師に対して診療録の作成を命じている趣旨としては、医師をして患者のために適正な診療を行なわしめるための手段の一つとして、医師にその行為の適正性を証明させるために作成させ、行政的に取締りをなしていくことに主たる目的があることはもちろんであるが、同時に診療を受けた患者自身の社会的権利義務を確定ないし確認すること、更には訴訟における重要な証拠方法となることが、その役割として予定されていると考えられる。そして右にいうところの訴訟とは、一般には当該患者と医師との間の医事紛争に関するものが予想されているといえるが、必ずしもそれのみに限られないとしても、せいぜい当該患者又は医師のいずれかが訴訟の当事者となり、自己の主張を裏づけるために右診療録をその立証活動の用に供するといつた場面までであり、患者と第三者もしくは医師と第三者との間の訴訟において、右診療に直接関連のない第三者がこれをその立証活動に利用するといつたことは、全く予測の外にあるというべきである。

被告チバは、将来の訴訟における証拠確保の利益という観点からすれば、患者と医師との間の訴訟における利益も、製薬企業と患者との間の訴訟における利益も、いずれも診療録作成時にあつては潜在的、仮定的なものにすぎず、反射的、結果的利益として差異のないものであるから、両者を別異に論じ得ない旨主張する。しかしながら、診療の直接の当事者である医師と患者との間の医療過誤に関する紛争は、将来起こるか否かは不確定であるという意味では潜在的であつても、何時でもその顕在化が予測されるものであつて、診療録作成の動機、目的において当然予想されている典型的紛争であるのに対し、製薬企業と患者との間のいわゆる薬品公害に関する紛争は少くとも現段階において全く偶発的であり、かかる場面における証拠確保の利益は診療行為の介在という事実があつても、診療録作成の動機目的として予定されたものとは認め難く、民訴法三一二条三号前段にいう利益として法的に熟したものとは評価し難い。仮にこれが利益といいうるにしても、それはせいぜい反射的(間接的)利益に止まるというべきである。」

これはスモン訴訟を長年にわたり審理しすべての証拠を詳細に検討しまた現在に至るまでの相手方らの応訴態度を直接診ている裁判所としてきわめて正当な決定である。

4. またもし相手方田辺の主張のように第三者たる医師が作成したカルテが民事裁判における真実発見のため役立つ資料であり、かつ、その提出が裁判所に対する公法上の義務としても将来その患者の治療にまつわる法的論争があればいつでも第三者に対して公開されかつまた証拠として利用されるという事になり患者の名誉およびプライバシーは著しく侵害されるだけでなく、医師と患者の間に治療のために必要な信頼関係を成立させる事はとうてい不可能である。即ちカルテ作成の第一義的目的である医師の診療行為の適正を確保するという事自体が失なわれてしまう。

右の見地からすればカルテは診療当事者である患者と医師の利益のために作成された文書であり、とうてい製薬会社の利益のために作成された文書とは言えない。

従つて相手方の右主張をそのまま容認した原決定はするどく批判さるべきである。

三、カルテ提出命令の必要性の不存在

1. 前述のように原決定は理由がないことは明らかであるが、さらに文書提出命令の対象たる文書が医療の場で作成される「カルテ」であるという特殊性を慎重に検討するならば到底、その証拠としての必要性も認められない。

前述のようにカルテ作成の主たる目的は医師の診療行為の適正を確保することにあり、そのために医師の診断、投薬、注射、手術等の診療経過ができるだけ客観的かつ詳細に記載されなければならない。

そもそも診療行為は医師と患者の信頼関係が存することが前提であるが、制度的にも患者の秘密保持義務などを医師に要請することにより信頼関係を担保させている。

このような信頼関係を前提としてはじめてカルテを治療上有効に利用できるのである。すなわち、医師と患者との信頼関係が確保され患者の状態が客観的に把握され、その内容をカルテに記載されることにより治療行為の適正が確保できるのである。裁判所の文書送付嘱託の決定に対し、多くの医師が原則として提出できない或いは患者の同意が必要不可欠であると回答してきた。このことは、医師が患者との信頼関係をいかに重視し尊重しているのかを端的に物語つている。

万一製薬企業のような全くの第三者に対して、民訴法三一二条三号前段を理由にカルテ提出命令が認められるとすれば、カルテが第三者の目にふれる虞れが絶えず医師と患者間に意識されることになり、信頼関係の基礎である秘密を保持してくれるとの期待は存在し得なくなる。

2. 以上のようにカルテの医療現場における重要性を正当に評価するなら、カルテの文書提出命令の必要性はあらゆる角度から慎重に検討されなければならず、極めて厳格に判断されなければならない。

すなわち、〈1〉提出命令申立により立証しようとする事項が重要であるか否か、〈2〉所持者が当事者か第三者か、〈3〉プライバシーに対する侵害の可能性、〈4〉提出命令の動機が何か(乱用の可能性)、〈5〉公共の利益に沿うか否かなどの諸点が十二分に吟味されなければならない。

以下その点について検討する。

(1)  相手方田辺の本件申立によつて立証しようとする事項は極めて一般的であり、個別の重要性が存しないこと。

相手方田辺の本件申立による「立証すべき事実」は「原告ら(または原告らの被相続人ら)の症状の経過、原告ら(または原告らの被相続人ら)に対するキノホルム剤投与と腹部症状、神経症状との間の因果関係の存在、合併症の有無と現神経症状に与える影響の程度」となつている。右事項は、一般的かつ抽象的であり、抗告人らが従来から主張しているように証拠探知のための申立であること明らかである。

ところで、四年有余にわたる本件訴訟のなかで抗告人らは相手方主張の右事実について、診断書、投薬証明、原告本人の陳述書、大村一郎医師作成のスモン診断書等の提出及び原告本人尋問によつて十分すぎる立証を尽してきた。しかも大村一郎医師作成のスモン診断書は原告ら(または原告らの被相続人ら)全員についてなされたものである。その結果相手方田辺が本申立でいうところの「立証すべき事実」は原告らによつて十分立証が尽くされているものである。従つて何ら個別的かつ必要性を主張立証することのない本申立のような一般的抽象的事実のみでは、本件カルテのような重要な文書に対する提出命令の必要性は到底認めることはできない。

(2)  所持者が第三者たる医師であること。

いうまでもなく所持者が当事者であるか第三者であるかは文書提出命令の必要性を判断する上で重要な事実である。しかも、本件では第三者が医師であり既述のように特別の考慮が必要である。

(3)  プライバシーに対する侵害が著しいこと。

我々がここで問題にするのは勿論、スモン以外の疾病についてであるが、疾病という特殊状況にある患者の治療経過にもとづき作成されたカルテに当該患者のプライバシーに関する事項が記載されていることはいうまでもない。さらに、カルテに関する秘密は、単に患者個人の生活だけでなく、家族・親族の生活にも関連する秘密であるため(親類縁者の精神病歴など)治療行為に関する秘密は他のプライバシーに比しても特に重要な秘密である。それゆえこそ、医師に対して秘密漏泄罪が規定され、証言拒否権が与えられている。

検察官が所持する不起訴記録に対する文書送付嘱託に対して「不起訴記録を無条件ですべて裁判所に送付するとすれば民事訴訟の当事者は、不起訴記録を書証として口頭弁論に上程する機会をもつたことになり、このため送付された不起訴記録はすべて民事訴訟記録の一部となる可能性を有する。そして民訴法第一五一条によれば原則として何人も民事訴訟記録を閲覧することが許されるのであるから、送付された不起訴記録はすべて公開されたのと同じ結果を招来する可能性があるのであつて、このことは密行性を原則とする捜査の理念に反し、事件関係者らの名誉およびプライバシー等を侵害する結果を生ずることになつて不当である。」(東京地裁昭和五〇年二月二四日判決・判例タイムズ三二五号二二二頁)

刑事不起訴記録よりプライバシーに対して極めて大きな侵害の可能性があるカルテが全くの第三者たる製薬企業の申立てる提出命令の対象となり得ないと考えるのが相当である。

(4)  本件申立は訴訟遅延を図るためになされたものである。

相手方らは、結審間ぎわになり、本件カルテ提出命令申立、鑑定申立などなりふり構わず証拠申立をなし、あわよくば裁判所を混乱に陥し入れ訴訟遅延を図ろうと画策してきた。本件申立はまさにその一つである。カルテが提出された場合は、その鑑定あるいは作成者たる医師の尋問、ケチ論による鑑定申立と被告らは本件訴訟を際限のない泥沼へ持ち込もうと謀つている。

このように本件申立は訴訟遅延を唯一の目的とした申立であり、文書提出命令の濫用としてその必要性を有しない。

3. このような必要性すらも欠く本申立を認容した原決定は、するどく批判さるるべきである。

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